第十六話

そよ風ゆらり

その日、八時をすこし回った頃、鉄也が小型の黒板と夏休みのドリルを持ってやってきた。黒板は、もう要らなくなったからと、鉄也のおばあちゃんが浜茶屋で伝言板に使っていたものを貰ってきたのだった。

みゆきの命令で、鉄也と亮一はまず算数からやり始めた。
すると計算問題が面白いようにどんどん進んでいった。

実は、壁に掛けた黒板にみゆきが式を解いていくのを、二人は写していただけだった。チョークをカタカタいわせて黒板に書いていると先生になった気分がするらしく、みゆきは機嫌がよかった。

「はい、それでは 算数の授業 はこのくらいにして、 給食の時間 にします」
さすがに三十分も計算をしていると飽きてきたようで、みゆきはそう言うと、亮一に蒸したさつま芋を持って来させた。

「みゆき先生、給食の後はやっぱり国語ですよね」
鉄也が芋を頬張りながら猫撫で声で言った。この際すこしでも宿題を片付けたいのだ。

「いいえ、次は 音楽の授業 にします」みゆきはすました顔で答えた。

「え一っ、音楽の宿題なんてないちゃよ」思わずいつもの言葉づかいで亮一は言った。
「音楽の通信簿も悪かったくせに、なに口答えしとる!」
「でもドリルにないもん」と鉄也も口を尖らせた。
「鉄也、おまえ先生に逆らう気か。おまえらはわしに宿題解かしといて、写しとるだけやないか」 
まったくそのとおりだ。二人は反論できる立場ではなかった。

音楽の授業は、みゆきが亮一の教科書から自分の好きな曲を選び、二人に歌わせるというものだった。もちろんみゆきも黒板の前に立って、箸を振りながら歌った。もうこうなると二人はみゆきの指示に従って、声を張り上げて歌うしかなかった。

しかし不思議なもので、しばらく大声で歌っているうちに、亮一は「まあ、いいか」という気になってきた。鉄也も同じ気分のようだ。
それでも三人順番の輪唱をさせられたり、ハミングをさせられたりすると、亮一はなんとも照れ臭くて仕方がない。一方鉄也は、みゆきに「ハミングが上手い」と褒められてたちまちその気になってしまい、ひとりウィーン少年合唱団になって首を揺すっていた。

「はい、それでは 休憩時間 にします」

時計は九時半になっていた。まるまる四十分も歌わされていたのか、と亮一はうんざりして溜め息をついた。
「ボウヤ、お茶持ってこい」みゆきは先生になったり姉になったりと、変わり身が激しい。

亮一がお茶の入ったやかんとコップを持ってくると、みゆきが腕組みして考え込んでいた。
「みゆき先生、この次は国語でしょ?」
鉄也が訊いた。とにかく苦手な漢字をここで一気に写し終えてしまいたいのだ。
「うるさい。おまえらはしばらく黙っとれ」みゆきはお茶をぐいと飲んで、黒板に何やら書き始めた。

みゆきを刺激しないように、お茶を飲みながら二人はコソコソ話をした。
「知っとる?昨日の晩、酒飲んで溺れた人がおったがやぜ」鉄也が小声で言った。
「どこで?」
「あすなろ荘の前で。ばあちゃんが言うとった」
「ふ一ん」
「足から出てきたがだと、足から」
「えー、どういうこと?」
「今朝、潜水夫の人が見つけて、ロープで漁船に引っ張り上げたがだって」
「げー」

みゆきが、突然くるっと二人の方を向いた。白い歯を見せてにっこり笑っている。

「はい、それでは 音楽の授業の続き をします」
「ええ−っ、まだやるがけ」
不満の声を上げた亮一を、みゆきは切れ長の目で睨み付けると、
「次は、先生が作詞作曲した歌を、みんなで歌いましょう」と言った。
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黒板にはみゆきのきれいな字が並んでいた。


そよ風ゆらり  松の葉ちくり
ケムシのおどり  春の風
さよならさよなら  またあした



なんだかよくわからないまま、二人は同時に「おお・・」と、感嘆の声を上げた。

「この歌は、詩の情景を思い浮かべながら、情感を込めて、しかもリズミカルに歌い上げなくてはなりません」

みゆきのフラダンスのような指揮に惑わされながらも、二人はすぐにこの単純な歌を覚えた。みゆきはますます上機簾になって、
「春の風のところを春・夏・秋・冬に替えて、四番まで歌いましょう」と言った。
もうすっかり先生になりきっている。

結局みゆきが飽きるまで、「そよ風ゆらり」と名付けられたこの歌を、二人は延々と合唱させられる羽目になったのである。



  

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