ぼんやりとした楕円の視界の底から、黒い裸足の足が現れ、規則正しいリズムで交互に動き始めた。どうやら、それはぼくの足のようだ。
時々、わずかに泡だった水たまりのようなものが足元に現われては消えた。
波打ち際を歩いているんだな、そう気付くと、にわかに足の裏の感触が甦ってきた。
ザク、ザク、と湿った砂の上を歩いていると、軽快で気分が良く、どこまでもこうやって歩いていたい気分だ。
ふと何かが左腕に触れた。
足元に合わせていた視線を胸元まで移動させ、それからゆっくりと左に動かしてみた。
この作業も気分が良かった。
もう一度やってみる。足元から視線をスーツと胸元に、そして左に移す。
さっきより上手く出来た。
もう一度やったらもっと上手く出来るかもしれないと思っていたら、視界が広がり、傍らに笹本恵美子が立っているのがわかった。見覚えのある紺色の水着を着ていて、胸がわずかに膨らんでいる。腰のフリルから下が濡れていた。
そうか、さっきからずっと一緒に歩いていたんだっけ。
ぼくは思い切って彼女の方を向いた。
「−−−−」
上手く言葉が見つからない。いったいこの子のことを何と呼べばいいのかもわからない。彼女はこちらを向いて、上目遣いのすこしはにかんだ笑顔を浮かべている。
「・・・笹本さん」
と言ってみた。笹本さんは困ったような顔をして小首を傾けた。
「えみこちゃん」
と、心の中で呼んでみた。自分の大胆さにすこし驚いた。
恵美子ちゃんはぼくが呼んだことがわかったようで、躰を寄せてきて、ぼくを見つめた。
目の前に恵美子ちゃんの優しい笑顔が迫ってきた。
ぼくは視界に入ってこない恵美子ちゃんの右手を探した。
恵美子ちゃんの指に触れた気がした。細く、それでいてやわらかい指のような気がした。
恵美子ちゃんが微笑んでいて、ぼくも笑っている。そしてぼくはドキドキしている。
恵美子ちゃんが突然駆け出した。
それから海に飛び込んだ。
ぼくも追いかけて、飛び込んだ。
恵美子ちやんが時々振り返りながら、海中の深いところへとどんどん泳いでいった。
ぼくも泳いでいった。どんどんどんどん泳いで、もぐっていった。
手を捕まえた。今度こそはっきり、手を握ったと思った。
目の前に網があった。
網の向こうで背中を向けて、恵美子ちやんが横になっていた。
手を引っ張っても恵美子ちゃんはこっちを向いてくれない。
「こっちに来た方がいいよ」ぼくは心の中で言った。
恵美子ちゃんがごろんとこっちを向いた。
知らないおっさんだった。
びっくりしてぼくはおっさんの手を離した。でも離れなかった。
網の中には、横になっているおっさんと、たくさんのくらげと、おっさんにまとわりついているたくさんの鼠がいた。
「やめろ!」
ぼくは離れない手を、一所懸命に振り離そうとした。でもおっさんは離してくれない。
ぼくは泣きながら睨み付けた。おっさんは知らんぷりしている。
おっさんは左腕に、すごく大きな鯛を大事そうに抱えていた。
時々鯛に嬉しそうに話しかけている。ぼくがその鯛を盗もうとしたとでも思ったのだろうか。
「魚を盗りにきたんじゃないがに!」
ぼくは必死で手を振り離そうとした。
「やめろ、いて、て、て、て・・・」
目が覚めた。
蚊帳の中で姉のみゆきに腕を引っ張られ、プロレスの技をかけられていた。
「ボウヤ、いつまで寝とんがよ。ラジオ体操始まっぞ。ほれ、ほれっ」
「ぎ、ぎぶあっぷ」
みゆきは自分の足技が上手くかかっていることが嬉しいらしく、プロレスラーになりきってなかなか離そうとしない。
亮一の朝はいつもこんな調子で始まるのだった。
「ボウヤ、おまえ夏休みの宿題どうすんがよ」
外見とはうらはらに気性はほとんど男というみゆきが、四つん這いで蚊帳から出ようとする亮一の尻を踏みつけながら言った。
八月になったというのに、亮一の宿題はちっともはかどっていなかった。
「今日はおまえに勉強教えてやるじゃ。鉄也にも来るように言え」
ありがたく思えとばかりに、みゆきは亮一の尻を一蹴りした。
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