インドにハマッタじゃ!


第十二話

ダンパス・トレッキング2


日没が迫りつつあった。ひたひたと忍び寄る暗闇から逃れようと私は息を切らせて山を登っていた。

と、突然、山の上の方からざざざっという音がすごい勢いで近づいてきた。猪が突進するような音だ。いや、トラが突進する音だったりして。いや違う違う、これは人間かもしれない。じゃあ、 おいはぎ

もう次の瞬間には、それは私の目の前にいた。
声も出ないで固まっている私の目の前に突進してきて、ぴたっと止まったのは、なんと少年だった。まるで猪を担いでいるかのように、背中に小枝の山をずっしりと背負った12才くらいのやせた少年が、私と同じようにびっくりして息もできないようすで固まっている。お互い目を見開いたまま動くことができない。

と、また上からざざざっと音がしてきた。少年は弾かれたように私の横を擦り抜け、まさしく猪のようにまっすぐに山を駆け降りていった。振り返ると、私の目の前には別の少年たち三人の見開いた目が並んでいた。その最後尾には彼らの親方のような男もいる。彼らもなぜか一様にぎょっとしたようなこわばった顔で私を凝視し、それから一気に山を駆け降りていった。誰も一言も声を発しなかったのが無気味だ。

しばらくすると少年たちの言い争うような声がこだまして聞こえてきた。激しく興奮したようにわめいている。きっと私のことが問題になっているのにちがいない。でもなんで?あっ、まさか。
いやな想像がはたらいた。彼らの背中にあったあれだ。たきぎにするのかなと思ったあの小枝の山には、なんだかやたらと葉っぱがついていたが、ひょっとするとあの葉っぱはガンジャ(大麻)の材料だったのかも。あんなごっそりと背負ったところを見たのがいけなかったのかも。どうしよう。
いや、まてよ、そういえばガンジャはただの雑草にしか見えない草の葉っぱだとかってベテラン旅行者が大学生に教えていたような気がする。じゃあいったい私は 見てはいけない何を見てしまった んだろうか。



かつて私は、それが何かはわからないが、見てはいけない何かを見たのかもしれないという不可解な経験をしたことがある。
まだ 有機農法 という言葉が世の中に認知されていなかった頃、その有機農法を実践していたある農家を訪ねた時のことだ。その農家は 千葉県成田市の三里塚 にあった。

今の若い人は知らないだろうが、かつて農民たちによる成田空港反対闘争があり、当時もまだ成田空港第二期工事反対の運動が静かに続いていた。1980年頃のことだ。
第二期工事反対を叫ぶ 「三里塚闘争」 の立て看板 が、のんびりしたキャンパスライフに満ちた私の大学の正門にもあった。が、私もそうだったが、その看板に足を止める学生などいなかった。闘争などという言葉自体がすでに時代遅れだったし、一部の過激派の学生が、大学当局による不当な授業料値上げがどうしたこうしたといっては試験の妨害をするのにも怒りを感じていた。つまり闘争という言葉は過激派のものであって、私たち一般の学生にとっては関り合いになりたくないものであったのだ。

ところがあるとき、私はある自然農法(有機農法)の本に興味をもち、そこが三里塚であることに気づいていながら、著者であるひとりの農民に会いに行ったのである。


成田空港駅に車で迎えにきてくれた農民は30代の若々しい男性で、私たちは空港のフェンスの外をぐるっと回りながら彼の家に向かっていた。途中彼が車を止め、ここに新しい滑走路を建設しようとしていてね、と説明を始めた時だ、どこからか四人の 機動隊員 とおぼしき男たちが現れた。紺色のユニフォームを着た年配の隊員ひとりと、黒一色のやけに重そうなものものしい格好の若い隊員三人である。

農民はうんざりしたようすで大きなタメイキをついた。どうやら彼にとってはお馴染みの事態が発生したようだ。だが私にとっては初めての事態である。

農民は鈍い目つきで年配の隊員に向かい、
「彼女は農業に興味をもって来ただけだ。関係ない」と言った。
つまり成田空港第二期工事反対運動には関係ないということを彼が言ったのだなというのがわかった。なるほど彼らがやってきたのは、私が反対運動に関わっているかどうか、ひいては◯◯派とかに属している学生かどうかを探りにきたのにちがいない。

農民が年配の隊員に職務質問のため連行されていくと、
「何をしにここに来たんですか?」と、若い隊員のひとりが優しい口調で私に聞いた。
「有機農法の勉強をしにきたんですよ」と私。
「さっきあっちの方を見ていたけど、なにを見ていたんですか?」
「あっちの方って?」
「ほら、あっちの方を見ていたじゃないですか」
隊員が指さすので、いったいそのあっちに何があるのだろうと好奇心にかられて凝視するが、雑草や木のほかにはめぼしいものはない。
「何か見えませんでしたか?」
「あの、何かってなんですか?フェンスの外ですか、中ですか?」
こっちの質問には答えてくれない。

見てはいけないもの でもあるんですか?」
さらに言ってから、これは聞いてはいけない質問だったのだろうかとひやりとしたが、若い彼らの目に不愉快な色は浮かばなかった。

それから彼らの上官が農民を連れて戻ってくるまで私たちはみんなでしゃがんでおしゃべりした。19才だという一番若い隊員は私が有機農法について説明するのを、へえ、へえとなぜか面白がって聞いてくれた。

ようやく農民が釈放されたので、私は彼の家に行って牛糞による土づくりを見せてもらい、畑を見せてもらい、「そのまま食べてごらん」と勧められ、畑でもぎとったばかりのピーマンをりんごをかじるようにかぷりとかじった。 生のピーマン はあまくてみずみずしくて、感動的においしかった(^o^)
それから彼の子供たちが木登りして遊ぶようすがおもしろくて、奥さんとおしゃべりしながらいつまでも眺めていた。子供たちが猿のようにするするとよじ登っては飛び降りていた ねむの木 に、薄紅色の優しい花が咲いていたから、あれは夏の初めだったのだろう。

あの時、若い隊員が「何か見えませんでしたか?」と聞いたのは、単にカマをかけただけだったのだろうか、、、。


今、ネパールの山の中で、私は凍りついて聞き耳をたてていた。見てはいけない何かを見たために彼らは 私を始末する ことを思いついたのだろうか。だけど外国人の私が何かを見たとしても関係ないじゃないか、彼らだってそう思ってもいいはずだ。そう思ってくれよ。


 

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