インドにハマッタじゃ!

第十一話

ダンパス・トレッキング1

不況の風が吹き荒れる中、1999年が始まってしまった。

そしてこのひどい経済情勢のさなかに、一番好きなことを仕事にしたいと決意したうちのボスは、HPデザインの事業を始めた。
この男はもともと大阪で独立して和菓子などのパッケージングデザインの仕事をしていたが、かなしいかな長男であるがゆえの責任感から、すべてをゼロに戻して27歳のとき故郷富山に帰ってきた。そこへもってきて、ちょうどその時広島くんだりから嫁にきた女が、見知らぬ土地で「私も何かやりたい!」などと訴えたがために、どうトチ狂ったか個人商社の貿易事業を始め、あげくに店を開くことになってしまったのだった。(ここで誤解のないように言っておくが、前回までの話で登場していた関西弁の男というのは、うちのボスとは全くの別人である。)

「これが好きだ!」という潜在的な想いは、念願の マック購入 により彼に最後のチャンスを持ち込んだ。PhotoshopとIllustratorのグラフィックソフトがチャンスの神様だった。
事務所設立は、彼にとって三度日のゼロからのスタートであり、デザインヘの再挑戦となる。
もはや若さという武器もない彼がどこまでがんばれるのか、その打たれ強さと不屈の精神に、感心するのを通り越し呆れるばかりの私である。とにかくがんばってほしい。



おっと話はネパールでしたね。

前回ヒマラヤに想いを馳せていたところ、この正月に届いた年賀状の中に、
「今年は春に子連れでヒマラヤのトレッキングを楽しむつもりです。18キロの息子はポーターがしょってくれるそうです」といううらやましい話があった。そうか、そうか、子連れでトレッキングかあ、楽しそうだなあ。しかも彼女の場合エベレスト遠征の経験のある旦那さまと一緒だから心強いはずだ。

思えば私の唯一のトレッキング経験は散々なものだった。

カトマンドゥからポカラに戻った私は、例によってほんの思いつきでダンパスヘのトレッキングにでかけたのだが、ひと気のない村々や田んぼの畔道を、駄菓子屋で買った 手書きのアバウトな地図 だけを頼りに丸一日不安とともに歩き続けることになった。
こんな時はいつも、自分が若い女であるということのハンディキャップを痛感した。男であれば感じなくてすむ「身の安全」について、たえず気を配っていなければならないのだ。


ダンパスは標高1788m、天空に鈍くそぴえるマチャプチャレ(6997m)を真正面に望むことができる山の村だ。トレッキング許可証が必要ないので、私のようにひょいと思い立っても気軽に行ける。
ポカラのバザールからジープで一時間半、そこから二時間の登りという快適なルートだ。

だがジープのことを知らなかった私は、全行程をたぶん九時間程かけて歩いた。まあ、もしジープのことを知っていたとしても歩きを選んだだろうけどね。若さというものは、肉体的な苦痛を克服することに快感を求めるものだ。疲労こそが、自分は自分を甘やかさなかった、自分はがんばったと思わせてくれる。もちろんその頃の私は若く、がんばった自分を求めていた。


スルジェ・ハウスにリュックを保管してもらい、寝袋だけをナップサックに担いで、その日私は意気揚々とトレッキングに出発した。

バザールから一時間余り歩いてチベット難民村に着いたところで、簡単な朝食をとっておくことにした。レストランに入り ヌードル・スープ を注文する。うれしいな、出国以来始めての麺とおつゆだ。ラーメンみたいなのがでてくるのかな、それともうどんみたいなのがでてくるのかな、今の私はかなり空腹だからど−んとこいだ。

行き交う人もない通りをぼんやり眺めながら待っていると空腹はひどくなるばかり。だがどういうわけか料理は出てこない。客は私ひとりなのにもう30分も待たされている。おいおい、ひょっとして 麺をこねる ところからやってるんじゃないだろうな。いやまてよ、きっとそうにちがいない。うわ−ん、麺料理なんか注文した私がばかだった。この先長い道程を歩かなくちゃならないっていうのに、こんなところで飯食わないで時間食っててどうすんのよ。

とそこへ、西洋人の女の子がポカラ方面からやってきて、何やら注文した。するとあら不思議、彼女の料理がいとも素早く10分程で出てきたではないか。いったいどうなってるの。
彼女はミルクおかゆのようなものをスプーンですくって食べている。こんなに簡単に料理できるものはいったい何なのか、ぜひとも知りたい。
ついに私のねちっこい知りたいぞ光線に絡め取られた彼女は、私のほうをちらっと見た。すかさず私は、聞かぬは一生の恥とばかりに勇気を出して彼女に聞いてみた。

「失礼だけど、あなたは何を食べてるの?」
「オウッミール」そう簡単に返事をすると、彼女はどう解釈したのか、「おいしいわよ」とお義理のように付け加えた。
なあんだ、それが オートミール っていう食べ物だったのか。池袋のスーパーだったかで、コーンフレークの箱の近くに並べてあったから、これも西洋人が朝食に食べるものなんだろうなと思ったのを思い出した。そっかあ、急いで食事したいときにはこのオートミールを注文すればいいのか。まったく西洋人の食べ物は研究しておかないと損するよな。

ついに一時間が経過した。そしてついにレストランのおばちゃんが私のほうにお椀を運んできた。やっほう、ヌードルのお出ましだあ。だけどお椀がみょ〜に小さすぎるのが気になるなあ。
はたして一時間待って出てきたのは、味噌汁のお椀ほどの小さなプラスチックのお椀に、うどんの一種とおぼしき5センチほどの短い細麺が数本浮かんだおつゆだった。
ラーメンじゃなくて、うどんじゃなくて、スープであったのだ。まあたしかにヌードル・スープを注文したんだからおばちゃんは悪くない。が、これじゃあ腹の足しにもなりゃしないどころか、そのスープを飲み干したら余計にお腹がすいてきてしまったじゃないか。
しかし今はもう空腹なんかにかまってはいられない。先を急がなくっちゃ。


慌てて駆けるように先を急いでいると、チベット村のはずれ、道端のチャイ屋で、なごやかな日本人たちの一群に出会った。見ると、久美子ハウスで出会った夫婦と、ネパールヘの国境越えで一緒だった二人の青年もいる。みんなでこうしてお茶をのんでいるこの時間がすごく嬉しいって感じで、みんなにこにこしている。

やあ、君だったのか、どうしてたの?へえ、もうカトマンドゥまで行ってきたのかあ。それでどこへ行くの?と、かわるがわるあたたかく迎えてくれる。
ダンパスに行くのよ、と私は答えたが、みんなが同じダンパスに行くのだったらいいのにな、そうすればまた会えて話ができるのにな、と思った。

「私たちはナウダンダに行こうと思ってるのよ」奥さんが柔らかく言った。ナウダンダはダンパスの対岸の山の村だ。
「でも今日はここに泊まるんだよ」と旦那さん。

えっ、ここに泊まる?まだお昼にもなってないのに?ポカラからほんの一時間ちょっとのここで?

「この人に合わせてるからねえ、みんなが三日かかるところを一週間かかるんだよ」
私の驚きを察したらしく旦那さんがそう説明すると、奥さんはえへって感じで笑った。
みんなもにこにこしている。この人たちも奥さんに合わせるのが嬉しいのにちがいない。

インドの女学生が着るパンジャビ・ドレス(ロングブラウスとスリムパンツの上下)がきゃしゃな躰によく似合う奥さんは病弱そうにはとても見えないから、どうやら旅を急がず、無理をせず、風景のひとつひとつをじっくり楽しみたい、そこにいる自分をじっくり感じたい、そんな旅なのだろう。

バナラシで彼女と話をした時、彼女たち夫婦は東京で暮らしていたのだけど、二人とも会社を辞めて 退職金で一年間の旅 にでたと言っていた。アパートも引き払って、家財は実家に預けたそうだ。

「日本に帰ったらどうするんですか?」などとくだらない質問をしたら、この旅がその答を導いてくれるから心配ないのよという表情で「さあ、今はわからないわ。でもなんとかなるでしょう」と私のために言葉を選んで優しく答えてくれたのだった。
独身の私には、夫婦で毎日ずっと一緒にいて窮屈じゃないだろうか、せっかくの旅を自分のぺースで動けなくて苛々したりしないだろうかと、この夫婦の仲睦まじさが不思議でならなかった。


チベット村でみんなと別れたのが、陽射しの加減からして十一時ぐらいだったと思う。
それから休まず六時間程歩き続けたにちがいない。ダンパスの山の尾根に辿りついたのがまさに日没三分前だった。日が暮れれば山道は暗闇となる。危機一髪で山を登り切ったというわけだ。つまりチベット村にとどまった夫婦たちは賢明だったのである。


トレッキングルートには道標などなく、行き交う人もなく、村人の姿もなかった。
かつて日本のどこにでもあった田舎の閑散とした風景の中を、これといった感慨もなくひたすら歩いた。

途中、男たちが数人たむろしているチャイ屋を田んぼのはずれに発見した時、私はすごくのどが乾いていた。が、近づいてみるとそこには旅行者の姿はなく、男たちが口々に「ジャパニ?」だの、「こんにちは」だのひどく騒ぎ立てるので、なんだか恐くてそのまま足早に通り過ぎた。

後でわかったが、そこはジープ乗場だった。彼らはポカラ行きのジープでも待っていたのだろう。が、疲れて不安になっていた私にとって、馴れ馴れしい彼らの笑みは 博打打ち とか 密売人 とかを連想させるに充分だった。


またしばらく行くと、民家におばあさんを発見した。道を確かめようと声をかけたらこれまたすごい騒ぎになった。
おまえは今日はうちに泊まれ、うちで寝ろ、うちで食べろ、とネパリ語でまくしたてながら、身ぶり手振りで招き入れようとするのだ。

それも悪くないかなあと思案していると、おばあさんの目が庭を駆け回っている鶏たちに注がれた。と、どこから取り出したのか、彼女の手にはもうすでに 包丁 が握られているではないか!私のためにこのすばしっこい茶色の鶏を料理しようと考えているみたいだ。

やばい、私って 鳥肉がだめ なんだよう。とたじろいだのと同時に、突然私の脳裏に日本昔話のひとつが浮かんだ。「むか−し、あるところに」で始まる、旅人と親切なおばあさんの話だ。旅人が夜中ふと目を覚ますと、おばあさんは 旅人を料理 しようと包丁を研いでいる、、、。きやああああ、このおばあさんだって、実は親切なおばあさんに化けた おにばばあ かもしれない!


おばあさんの親切を振り切ってまたひたすら歩いていると、今度は前方の川原に親子を発見した。追いつくと、やけにやせこけた少年と母親が重い荷物を担いで重い足取りで歩いていた。
ダンパスヘのいわゆる登山口はどこにあるのだろうと日が傾くにつれ不安になっていたので、ここで村人に会えた私ってツイてる。

ダンパスを尋ねると、母親はひどく疲れたようすで前方にある右手の山道を指差した。
えっ、ほんとかな。今聞いて、今そこに登山口があるなんて、なんか安直だなあ。どうも信憑性がない。

登山口の前まで行ってみるが、人ひとりが通れる何のへんてつもない山道があるだけだ。
私が躊躇していると、川原から金切り声がした。見ると母親がその道を行けとさかんに叫びながら合図している。あんなに彼女は疲れていたのに、私のことを心配して見届けてくれていたのね。彼女の親切に促されて、というより彼女の叫び声を静めるため、その山道に入っていった。

だが登れども登れども人っこひとり出会わない。陽はどんどん翳っていく。日が沈む前になんとしてもこの山を登りきり、山の尾根に建ち並ぶ宿のひとつに辿りつかねば!
疲れや喉の渇きなどもうどうでもよかった。 迫り来る暗闇 から逃げ切ることだけを考えていた。


つづく


 

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