インドにハマッタじゃ!

第九話

仏塔スワヤンブナート

カトマンドゥで、三人の和気あいあいの共同生活が始まって一週間が経ったある日、とんでもない事件がおきた。それは、関西弁の女の子の身の上にふりかかった悪夢のような出来事だった。

その日彼女は、スワヤンブナートに行ってくるね、と意気揚々と朝から出かけた。食べることが好きな彼女は、行動範囲を広げず、食を中心にのんびり日々を送っていたのだが、たまには私がするように遠出してみようと思い立ったのだ。
それがわざわいしてしまった。



スワヤンブナートは、町の西たぶん2キロか3キロ。小高い丘の頂上に建つ仏塔だ。
急な石段をのぼりつめると、白い仏塔が忽然と現れ、 四方を見通す仏の眼 に出会える。ラマ僧がにこやかに迎えてくれ、猿も猿らしく歓迎してくれる。

さらに素晴らしいのは、その丘からカトマンドゥ盆地と、そこにひしめくレンガ造りの家々が一望できることだ。
風に吹かれて下界を見下ろしていると、あたかも仏の眼で人間の生活を見ているような錯覚にとらわれる。不思議な浮遊感がある。

だが、いつまでも悟ったつもりでそこにとどまっているわけにはいくまい。日が暮れる前に下界に戻り、明かりのある場所に帰り着いておかなければ、やすらかな眠りにはありつけないのだからね。

たぶん彼女は、その判断が少しばかり遅れてしまったのだろう。


その日、いつもの帰宅時間をとっくに過ぎても彼女が帰ってこないので、私も関西弁男も「どないしたんやろ」と、不安でならなかった。
日が暮れると、とにかくいったんは必ず部屋に戻るというのが、この三人家族の楽しみになっていたし、私とちがって彼女は家庭的というか、ほっつき歩くことをしなかった。
朝の四時から地元の青年のバイクにまたがって、 ヒマラヤから昇る朝日 を見るためにナガルコットの丘(2100m)に上ったり、夕食後に無料映画を観るためにイギリス大使館まで出かけたりしていた私とはちがうのだ。

いったい彼女はスワヤンブナートからの帰り道で迷子にでもなってしまったのだろうか、いや、そもそもスワヤンブナートに辿り着けたのだろうか、、、。

結局彼女はかなり遅くにようやく帰ってきた。
が、いつもにこにことふっくらしているその顔はひどく怯えて疲れきっていた。
私たちは彼女が落ち着き、口を開くのを待っているほかなかった。


「スワヤンブナートの帰りに おしっこ がしたくなってん」ようやく彼女が口を開いた。

彼女のあいまいな記憶によると、話はこうだ。
すでに暗くなっていた帰り途、おしっこをしようと竹薮みたいなところにはいりこみ、しゃがんでいた。すると暗くて気が付かないでいたが、どうやらそこは 野犬 のなわばりだったらしく、二匹、いや三匹の野犬がうなりをあげて近付いてきた。震え上がっているうちに、野犬におしりを噛みつかれてしまったというのだ。

彼女にとっては悪夢のような事件も、説明するとこんなふうに簡単なストーリーになってしまうのね。だけどみなさん、ちょっとここで彼女の味わった恐怖を想像してみてくださいよ。
暗がりで突然、眼を光らせ、牙をむき、うなりを上げる野犬に取り囲まれ、 むきだしのおしり を噛まれるんですよ。

たしかに彼女は用心が足りなかったし、なにより丘を下りる判断が遅すぎた。
しかし、よりによってこんな恐怖を味わうことになるとは、、、 運が悪かった としかいいようがない。


狂犬病 になるかもしれん」彼女は泣き出した。

狂犬病!!!
いったいそれってどんな病気なんだ?
狂った犬に噛まれるから狂犬病なのか?
それとも狂った犬みたいになるから狂犬病なのか?
ひょっとして、狂った犬みたいになったあげくに死んでしまうのか?
うわあ、どうしよう!

「日本に帰ろうかな」と、彼女がつぶやいた。
「そのほうがええな」と、関西弁男が応えた。

噛まれてからどれくらいで 発病する んだろう。その 潜伏期間 がわからなくて不安だったが、とにかく一刻も早く帰国して病院に行きさえすれば、狂犬病で死なないですむだろうと私も思った。


しかし彼女はとことん運が悪かったわけではなかった。幸運なことに、彼女の兄の友人がカトマンドゥの 郊外の村 に住みついていて、翌日その人をふたりで訪ねると、行くべき医者を教えてくれたのだ。

バスを乗り継ぎ言われた場所に辿り着いてみると、そこは小さな診療所で、というよりアパートの一室で、こんなぼろっちいところで大丈夫なんだろうかと不安になるたたずまいだった。
受付もなく、現われたのは、髪をばさつかせた愛想のない 西洋人の女医さん で、「 注射 を打ちましょう」と事務的に答え、関西弁の彼女を処置室に連れていった。
なんだか人生に疲れたようなこの女医さんの処置で大丈夫なのだろうか。一抹の不安を覚えたが、しかし今はこの女医さんを信用するしかあるまい。女医さんよ、どうか信用に応えておくれ。


それから三日経ち、そして五日経った。彼女はずっと元気でいた。
そして我が家には、賑やかな笑いの渦が戻っていた。めでたし、めでたし。

ところで今これを書いていて気がついたのだけど、狂犬病というのは 伝染病 のはずで、そうなると彼女だけでなく、実はこの私だってヤバかったはずなのね。彼女が元気でいて、私もツイてたってことだ。関西弁男、彼はツイてるっていうより、いつも最善の注意を払ってうまくやる男だったから、いずれにしろ彼は実力でクリアできていたにちがいない。


 

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