インドにハマッタじゃ!

第八話

  ネパールの首都カトマンドゥ到着

 

ポカラ〜カトマンドゥ間はバスで八時間。
途中休憩でバスが止まると、私は 飯屋の裏手 に駆けていって、畑の畦道にさっさとしゃがみこむ。慣れたものだ。ここにはトイレなんてない。

インド人の男たちが、彼らも用を足しにきたのか、それとも覗きにきたのか、ちょっと離れた畦道をなぜかへらへらしながらやたらと通り過ぎる。
かわいそうに西洋人の女の子が、作物の育っていない低い畦を前に、泣きそうな顔をして立ちすくんでいる。銭湯で鍛えられている私なんかとちがって、お尻を露出することに相当な抵抗があるみたいだ。

私は相変わらず移動中には食事をとらず、置き去りにされないよう早々にバスに乗り込む。

バスはなにもない村々をいくつもいくつも通りすぎる。少し大きな村にバスが止まると、子供たちが集まってきて、窓の下から煙草を差し出してくる。今日の稼ぎを狙って明るい笑顛で売り込みをかけてくる一生懸命さがかわいい。
チップの習慣をもつ西洋人たちの中には、チップの代わりにって感じで、気軽に煙草を一箱買って短い言葉を交わす人がいる。いつもはお金にシビアで、鋭くねぎる彼らが、こんなときはあっさり買っているのをみると、かっこいいなあと思う。

不意に、 やけに小さなバナナの房 が私の目の前に差し出された。見ると12才くらいの少年が、人生に疲れた目で私を見上げている。そうだよな、煙草なら日持ちするけど、バナナは腐っちゃうもんな。そりゃ疲れるよな。
思わずバナナを一房買ったら、なんのことはない、ぺろりと一房全部食べてしまった。移動の緊張で気がつかないでいたけど、ほんとはすごく空腹だったわけだ。バナナ売りの少年に感謝。



午後四時頃、ついに主都カトマンドゥにバスは突入した。主都だけあって、街は人と車でごったがえしている。
今回の私は、珍しく誰にも導かれることなく、自力で宿に辿り着いた。「地球の歩き方」にあった地図をたよりに辿り着いたのは、日本人放浪者愛用の安宿、ストーン・ハウス・ロッジだ。

宿代はドミトリーで7ルピー(当時140円)。申し分ない安さだ。

「ドミトリーが空いています。三人部屋で、日本人の男一人と女一人がいます。どうしますか?」と宿のオヤジらしい男が訊いた。

大部屋のドミトリーに男女がごっちゃに泊まるのには久美子ハウスで慣れてるけど、 三人部屋で男女混合ドミトリー ?そういうドミトリーもありなのか?
でもまあ、すでに男と女が入居してるわけだから、ありってことなんだろうなあ。とにかく今夜はここに泊まることにした。


やたら狭くて急な階段をずんずん上がって案内されたのは、ベッドが三つあるだけの、まるで寝るだけって感じの小さな部屋。壁は全面青色に塗られ、きっと西洋人ヒッピーが描いたのだろう 西洋ふうシバ神 が正面の壁一面で瞑想していた。

この部屋でどんな人たちと出逢えるのだろう。緊張して二人の帰りを待っていると、やがてドアが開いた。
なんと、入ってきたのは、スルジェ・ハウスで同室だった同じ年頃の関西弁の女の子だった。
「あれえ、今日着いてん?」

女のひとり旅は絶対数が極端に少ない ので、同じルートだと、かなりの確率でドミトリーで顔を合わせることになるようだ。知った顔に会ってほっとしたそのすぐ後、またドアが開いた。

「えっ、なんや、おまえか!」
もうひとりは、なんということだ、例の関西弁男だった。

この男のことだから、またえらいもんに捕まってしもたと思ってるだろうな、と顔色を窺うと、あれれっ、意外にも今回はこの偶然を面白がっているようで、けっこうにこにこしているではないか。ふ〜う、とにかくよかったよかった。


こうして、寝るだけ、みたいなやたらめったら狭い部屋での共同生活が始まったのであるが、、、不思議なことに私たち三人は、あっという間に仲良し家族になったのである。最初は、兄貴と妹二人ってかんじだったのだが、いつしか、じいちゃんと孫娘二人ってかんじになり、毎日笑いころげて暮らした。

毎日の暮らしはというと、朝は各自、自分で朝食を調達してきて勝手にとり、だいたい九時位から行動を開始する。つまり広い意味での観光にでかけるわけだ。そうして夕方陽が落ちる頃になると部屋にもどり、今日あった出来事をおしゃべりする、時には他の部屋の人と食事にでかける、とまあ実にまっとうな家族の暮らしをしていたのだった。


ストーン・ハウス・ロッジには中庭もテラスもなくて、他の日本人と情報交換する溜まり場がなかったのだが、それでもうまく見つけたもので、屋上から屋根に上って日向ぼっこしながら何人かが溜まっていたりした。彼らは インドから陸路でヨーロッパ にいくルートだとか、どうやって チベットのラサ に入るかといった情報を交換していた。

この頃の私は、チベットについての知識がなく、ラサという地名も、ダライ・ラマの名前を聞くのも初めてだった。
しかし、ああそういえば、カルカッタのパラゴン・ホテルにいた時、「今ダライ・ラマがきてて、通りはすごい騒ぎになってるから、外にでないほうがいいよ」なんて誰かが忠告してくれたっけ。
もひとつそういえば、ポカラのチベット村に行った時、お米からつくったロキシーというお酒を飲ませてくれるお店があって、その店の壁一面に、似たような顔をした僧の写真がべたべたと貼ってあったっけ。その時、店のおばさんが、どの写真のことを聞いても「ダライ・ラマ!」と誇らし気に答えたのだった。今思えば、あれは歴代のダライ・ラマの写真の数々だったのだ。そして一番大きくて新しい写真が、まさしくダライ・ラマ14世であった。


  

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