インドにハマッタじゃ!

第二話

カルカッタ パラゴン・ホテル

 
旅は安くないと許せない、安さこそが旅の真髄だ、というのが今も昔も私の一貫した人生哲学ですので、14万円台の インド一年オープン・バンコク乗り縦ぎ空港券 なるものを目白の怪しげな古道具屋で手に入れた時は、私もなかなかやるな、と妙に緊張感が全身にみなぎりました。
1983年のバンコクのホテル代込み14万円台ですよ、すごいでしょ。放浪のプロたちだってホテル代なし15万円台だったんですからね。

えっ、ところでこの話はそんな昔の話なんですか?と驚きのみなさん、ご心配には及びません。なんたってこれは、悠久の国インドの話なのですから。
インドという国は15年前だろうと平成十年だろうと、聖なる河ガンガーへ行けば寸分違わぬ 沐浴、火葬、マッサージおじさん、目つきの悪い犬 などという風景がそこにあり、街を歩けば 「ジャパニ友ダチ、見ルダケ見ルダケ、ノー高イヨ」 の呼び込みがあり、日本人ロツジに行けば喜多郎ふうの先輩放浪者が紙煙草を上手にくるくると巻いており、その傍らで大学生旅行者が「サルナートには行かれましたか?」などと敬語で接しているという風景が、同じ同じにあるのです。あるはずなのです!
今やコンピューター最先端頭脳国インド、核実験で非難を浴びている国インドではありますが、庶民の生活態度というのはなんにも変わっちやいないし、長期旅行者の生活態度というものもやっぱり変わっちやいないはずなのですよ。


バラゴン・ホテルの二階のテラスでは、白人の青年たちが世界中どこへ行ってもそうするように、カルカッタの安宿街のホテルに来てまで、日光浴していた。
一階のドミトリーの部屋の前にある縁側のようなスペースでは、日本の青年たちがいつも何人か溜まって情報交換したり、紙煙草をすったりしていた。

私はというと、毎日通りをうろついていた。
あっちの通り、こっちの路地と、朝からはりきってうろついては、インド人を観察していたのだ。


排気ガスの溜まり場の淀んだ空気の中で、わずかな商いをする幼い少年の、疲れた顔を見る。薄い筋肉を収縮させて走るリクシャワーラー(人力車夫)の、細すぎる腕や脚を見る。

路上に暮らす母親 の脇腹で、蠅にたかられながら眠る赤ん坊の、安らかな寝顔を見る。路地裏でカレー色のうんちをしている幼い子の、かわいいお尻を見る。

透けるほど美しいシルクのサリーをまとった女性の、たるんだ腹の肉を見る。ぼろ布のようなサリーをまとった女性の、その前に仰向いた干からびた赤ん坊を見る。 私に手を差し出す乞食 の、やけに窪んだ目を見る。


生活とは、食べること、排泄すること、眠ること。そしてその為に今日一日働くこと。

インド人を観察しながら私がそんなふうに、NHKドキュメンタリーのノリで 生きることの根源に肉迫して ホテルに帰り着くと、溜まって情報交換している青年たちの誰かがきまって、子どもを迎える母親のように優しい言葉をかけてくれる。

「おかえり、何してたの?」

すると私は、生きることの根源とまるで違う、NHKならぬ日本テレビのノリで、今日のトピックスを報告するのだった。

「通りでね、 華僑の兄弟 に会ってね、高級ショッピングセンターの買い物につきあって、それからチャイナタウンの彼らの家でお昼をご馳走になったの。そこのお姉さんが美容師でね、ホラ、髪切ってもらったのよ。帰りはバイクで送ってもらっちゃった」

言い訳がましく言えば、インド人を観察する合間に、中国人も観察して、国際親善していたのさ。しかし、どうにもこれじゃあ、バカな女の子みたい、、。


また別の日。

「おかえり、今日は何してたの?」

「映画観てきたの。通りで バングラの子たち に会ったらね、一緒に観に行くって言ってね、映画館のラウンジでコーヒー奢ってもらっちゃった」

ますます私ってバカ丸出しじゃん。
しかし、日本の青年たちは優しい。こんなくだらない報告にも「ボケ!」などと言わず、「ふ〜ん」と適当に相槌を打ってくれる。
しかも、中に世話好きな青年がいたりして、
「そんな白いブラウス着てうろうろしてちゃだめだよ。早く 現地の服を調達 したほうがいいよ」と忠告してくれたりするのだ。


余談ながら、バングラの子たちというのは、バングラデッシュから出稼ぎに来てる十四、五歳の男の子二人組のことで、彼らはサダル・ストリートを拠点にして、旅行者からカメラやウォークマンを買い上げる仕事をしていた。

「ソニー、コニカ、ニコン、ミノルタのカメラない?」

新顔の私は通りすがりにいつも声をかけられる。
私はカメラもウォークマンも売る気がなかったので、入国の時正直に申請して、 パスポートに所持品の記帳 を受けていた。出国時に、売り払ったりしていないか厳しくチェックされることになる。

だが申請したカメラを売り、その後大変な事件を引き起こしてしまった日本人の女の子がいて、その話はカルカッタではあまりに有名だった。(この話は、やはり別の時期にカルカッタでこの噂を聞いたボスが「おまけの小話」の「カルカッタの悲劇」に書いているので、そっちを読んでね。)


「カメラ見てくれる?」

三日目にバングラのひとりの子にそう言ったのは、 物々交換用 に持っていた申請していないバカチョンカメラがあったからだ。

バングラっ子は私をチャイ屋に誘った。
チャイ屋のテーブルの下で、私がこそっとショルダーバッグから取り出したカメラを見たとたん、彼は、
「これあかんわ、どうにもならんで」と、 完璧な関西弁 でささやいた。
「こんなん売り物にならへんで。他にカメラ持ってないんか?」
「持ってない」
「ウオークマンは?」
「持ってない」
本当は持っているけど、 売却用は持っていない のだから、持ってないというしかない。隣り合って座っていた私たちは困って、同級生のように顔を見合わせた。
きれいな澄んだ瞳。やっぱり彼はまだほんの少年なんだ。こんなしょうもないカメラなんか見せて、なんだか気を遣わせて、悪かったなあと思う。

「これ、しまっとき。もう行きや、ここはオレが払っとくから。いいって、オレが払っとくよ」
少年は一人前のバイヤーの顔にもどると、陽気にそう言ってチャイを奢ってくれたのだった。


カルカッタ四日目にして、ようやく私は母への手紙を出した。親からすれば娘の生存を確認する唯一の方法がこの手紙だというのに、困った娘である。

「今、成田空港におるんよ、これからインドに行くけえな。ガチャ!」

一方的にそう言って、電話を切ったきりだった。
女の24歳、人生の悩みがグチャーと凝縮する年頃でした。

故郷の広島を離れ、東京で一人暮しをしていた私は、六畳一間の下宿部屋で、結婚、仕事、自分の夢、そして故郷のことをどう選択したらいいのかすっかりわからなくなって、混乱していました。もっと言えば、自分の才能のなさに、つまらなさに、うちひしがれていました。
そんな時、どうしたことか、今まで一度もそんな照れくさいまねをしたことのなかった父が、私に電話をかけてきました。

ちびまる子の父ヒロシのような、くだけすぎた父親なので、改まって娘と電話なんぞしたことがありません。娘のほうも然り。なんだか、ぎくしゃくと話しているうち、話は変な方向に流れていきました。

「家族にはそれぞれ役割があるんじゃけえの」そんな話になりました。
「じゃあ、お母さんの役割は?」
「ありゃあ、忙しい忙しい言うて、わたわたしとるんが好きなんじゃ」
「兄さんは?」
「ありゃあ、お母ちゃんに、はよせえ、そらせえ言われて、尻引っぱたかれとる」
「お父さんは?」
「わしゃあ、好きなことしとる」へっ、なんですと?
「なら、私の役割は?」
「おまえは、 青春を謳歌しとりゃあええ んじゃ」おお!

そうか、青春を謳歌していればいいのか。
父がそう言ったからと言う訳ではないが、それから数カ月経ったクリスマスの頃、私は「インドに行くよ」と友達にふれまわり、それから慌てて旅の準備をしていきました。インド大使館とネパール大使館でビザを取り、 寝袋を買い 、「地球の歩き方」を参考にルートを立て、三カ月分の家賃を前払いすると、15万円分のトラベラーズチェックを腹にしっかと巻いて、1983年1月末、 エジプト航空機 にひとり淡々と搭乗しました。(エジプト・エアでバンコクヘ、バンコクで一泊してタイ・エアでカルカッタヘという格安チケットでした)

さすがはエジプト・エア、そんなことじゃないかなと思ったとおりの展開で、搭乗後またもゲートに戻され、 機体整備のため待つこと七時間
やっと夜の闇に向かって飛び立ったエジプト・エアの機内は見ただけで老朽化していてバタバタ。すきま風が吹き込んでいそうな、床が抜け落ちそうな、落ち着かない雰囲気だ。客もまばらで、アラブ系おばさんスチュワーデスのでっかいお尻を見ながら、私は心に誓っていました。もしも、この飛行機がどこかに 不時着 したとしても、あのアンデスの雪山で死体を食べて生き延びたという生還者たちのように、生きるための努力を最後までしよう、と。

ほとんど菜食という偏食の私がここまで悲痛な覚悟をしている同じ時、故郷の両親もこれまた心配な思いをしていたにちがいありません。と思いきや、後で母に聞くと、母はもし何かあっても あきらめるしかない といさぎよく思っていたそうです。反対に、あきらめが悪く、心配ばかりしていたのは、私に青春を謳歌しろとうっかり言ってしまった父のほうだったらしい。


 

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