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皆 伝 方 子
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| 「父皆伝武久中佐(後に大佐)は陸軍士官学校の戦術教官をしていた昭和十七年三月、南方軍参謀部付として召集され、泰国外征軍連絡将校、南方軍総司令部報道部長を経て、昭和十八年九月、独立守備歩兵第六十七支隊長として、インド洋上のアンダマン・ニコバル諸島中、主としてカモルタ四島(カモルタ、ナンコーリ、カッチャル、トリンカット)の守備に就く。そして最終的には独立混成第三十七旅団長として昭和二十年八月の敗戦を迎える」 南港、ナンコーリ、Nancowry この美しい響きの中に私は、常に栄えある武人として実戦の野にあることを切望した父の軍人魂が花開き、そして又打ち砕かれた酷暑の地、父の最後の戦場への限りない愛惜と郷愁がただよっているように思えてならない。 昭南島(シンガポール)のキャッセイビルに於て一年三ケ月の問、南方軍報道部長の職にあった皆伝中佐は昭和十八年九月十七日午前十一時三十分、アンダマン方面独立守備大隊長への転任命令を受けた。支隊編成のため直ちに内地へ帰還した中佐は約一ケ月後、部下を掌握して再び昭南島より軍艦「香稚」にて運ばれ、十月末遂に南港(カモルタ島とナンコーリ島間の港、ナンコーリ港とも呼ばれている)に入港、カモルタ島東南角に上陸の第一歩をしるす。以後こゝを本丸としてカモルタ四島に於ける守備陣地構築に着手する。 “昨夜ふと目を覚すと、汀にぐぁちゃん、ぐぁちゃんと波の音が聞えて、何とも云へぬ心地す。多分満潮であろう。 明方豪雨のため目を覚し、蚊帳の目を通して細雨が顔を冷やす。此雨にては兵舎の建築なき限り濡れないものはあるまい” “こゝは昭南の生活に比し文化の点に於ては雲泥の差こそあれ、天然の美と天地正大の気に接する点に於て遥かに優秀である。何となれば、常時印度洋を睨んで、敵の来寇に方りては断固として之を撃滅し、皇国をして泰山の安きに置かんとする決意に燃えて居るからである。かかる生活は生れて始めてであり、将来得難き機会であることを思へ” 尚、南港支隊到着前、海軍の杉本隊が最初の南港開拓に従事しており、支隊の本格的陣地構築開始を期に同年末その任務を全うして引き揚げて行く。 “〇四・〇〇起床 杉本隊の大発三隻、カーニコバルに帰還の道途を送る。再び会ふ機会は恐らくあるまい。想へば本年七月中旬、杉本隊八十八名が南港を開拓してくれて居たために、予個人としてはもとより、部隊のためにも非常なる恩恵を受けた。海路の無事を祈る” “本朝久し振りに海浜を散歩して居る内に、かって海軍の杉本隊がよくやっておったのだが、石を起してカニを捕へ、空缶に入れ、鶏に与えて居たことを思ひ起し、始めてこれをやってみた。当時は「何だ汚い!」と思って居たが、杉本隊長の転任に方りその鶏を貰ひ受けてみると、矢張り多少なりとも鶏が可愛いのでカニ捕りに興味を覚えて来た。況んや雄一羽雌八羽で毎日平均二三個の卵を飲ませてくれるにおいておや。離島にては、一面戦争、他面建設、即ち屯田自給を必要とす” それから数ケ月の間に、テレッサ、チョウラ両島の守備隊新井大隊、海軍警備隊、そして陸海混成旅団が相継いで進出し、離島の守備態勢は確立して行く。 私達娘にとって、軍人である父の存在は非常に稀薄なものであった。物心つく頃既に父は家庭に居なかった。居なかったばかりではない。それ迄も殆ど「お父さん」と呼んで甘えたことも、どこかへ連れて行って貰った記憶もない。そして敗戦にて戻って釆たのは、憔悴し、病苦にやつれた敗残者であり、失意のどん底にある魂のぬけ殻だったのである。そして父は二度と再び立ちあがれなかった。 戦後三十余年、父の死後二十年以上を経て、偶然私は残された日記の断片の中に父の生きている姿をみた。そして胸をつかれた。想像を絶する厳しい自然、熱暑やマラリアとの闘い、乏しい食料と非衛生極まる環境の中で戦闘準備に心血を注ぎ、人間関係の軋轢に苦悩する姿!私は生れて始めて父に親近感を持ち、人間的共感を覚えたのである。 私達がみなれていた頑固偏屈な老人が真に男として生きていた時代の人間味を、人間的ぬくもりを発見して驚き、苦い喜びを覚えた。 私は何も知らなかったのだ!! 母の言によれば、父は融通のきかない堅物、石橋を叩いて渡る男“石部金吉”と綽名されていたそうである。その父とは正反対にインテリで頭が切れて粋好みの上司旅団長閣下との精神的葛藤も私にはよく理解出来た。そして、この心の争いと実戦闘の狭間で四苦八苦しながらも人間的に成熟していく父の姿に涙した。敗戦という悲劇の予感を抱きつつも、天皇陛下を信じ、皇軍の戦士たる誇りを失わなかった父も、すべてを飲み込む敗戦の大波には抗しようもなく押し流されてしまったのである。 今や誰でもが日本の犯した誤りを知っている。戦争は絶対にすべきではないと。 しかし、この世の中では正しい人々の間にも卑小さが無い訳ではなく、誤っている人々の中にも崇高さは存在することを私は学んだのである。 父の抱いていた誇りと忍耐、私もその十分の一でもいいから持ちたいと努力している。そうすれば、父はきっと今迄の私の無知を許してくれるであろう。 |
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